日々の遺書

雑多なことを徒然と。

劣等感

 現在の人格形成に最も関わっているのがこれだろう。
 劣等感があるため資格を取ってこの世で働いていけるようにした。劣等感があるから技術を身に着けようと焦り、雑用ばかり任せられる自分が嫌いになり、雑用を任せる会社に失望した。劣等感があるから上司の発達障害ではないかという言葉を信じ、足掻き、受け入れられず、辞めた。

 そもそも、劣等感を抱くようになった理由は何か。
 資格を取る、そのために大学に行く、と決めた時から劣等感はあった。
 発端は前に書いた転校先の小学校で受けたいじめと考えられる。自分が悪いからいじめにあったと考えた。
 再び転校したが、年齢のせいか環境のせいかいじめのせいか、転校先では余り人と積極的に関わろうとはしなくなっていた。誰にでも話しかける自分は消えた。自分なんかが話しかけては迷惑になるのではないかという意識が芽生えた。
 さらに、弟は自分と違って転校先でも友人ができていた。弟は自分と違って明るくて友人もできて父親との関係も良好で頭も良かった。自分の文化祭と弟の体育祭がかち合った際、三年間のうち全て弟を優先した。しかし親は悪くないと思う。年上と年下ならば年下を優先しただけだ。文化祭に一人よりも体育祭に一人の方が辛いかもしれない。誕生プレゼントは平等に貰っているし、あからさまに差別されたわけではない。弟と仲が悪いわけではないし、私も弟を嫌いではない。自分が勝手に親は弟のほうが大事だと劣等感を抱いているだけである。
 自分に自信があれば劣等感を抱かず親を恨むことはないのだろう。劣等感を抱いたから自分に自身がないのか、自分に自信がないから劣等感を抱くのか。そこいらへんは卵が先かひよこが先かという話になるが、できるだけ平等に扱っている親を恨む自分が嫌いになり、ますます劣等感を抱くという負のスパイラルに突入しやっぱり死んで消えたほうがいいね、という結論に達する。

 親が嫌いだから死にたいのではない。劣等感により自分を肯定できず、自分が嫌いだから、嫌いな自分から逃げたくて死にたいと思うのだ。
 会社が嫌い・世間が嫌いというのなら逃げようと思えば逃げられるだろう。世の中の、死ぬよりも逃げろという人は逃げるというのをそういう意味で使っている。
 しかし、自分が嫌いな場合、自分から逃げるのは自分を形成している人格を消すか、肉体ごと人格を消すしかないのだ。そして肉体を維持したまま人格を消すよりかは簡単に自分から逃げるために死という方法を選ぶのだ。