日々の遺書

雑多なことを徒然と。

中学生・高校生・大学生

 中学・高校では、自殺未遂はしなかった。
 「死ぬのはいつでもできるから、今はとりあえず生きよう」という呪文が効いていた。
 それに、学校の図書館でとてもおもしろい本に出会い、この作者の本が出る限りは生きたいと思っていた。
 下らない理由かもしれないが、過去の自分は確かにこう思うくらいに感動していた。
 ただ、「いつでも死ねる」という思いがあったためか、こうなりたいという夢は特に無かった。
 生物の授業は何となく好きだったため、理系の大学に進もうとはしていた。
 どうしてもなりたいと思えるものがないまま、選択肢を増やすための勉強をして、選択肢を眺めていただけだった。
 好きなことは小説を書くことだった。こっそりと未完の小説を書いていた。
 しかし小説家になるための進学もせず、努力もせず、自分の得意科目と、堅実さのバランスを取った大学に進学したと思う。
 何なら、大学に行くのも働くのも小説のタネになると思っていた。
 そうやって、なんとか自分が頑張って生きる理由を作っていた。大学に進むのは自分のやりたいことだと思わせていた。
 そうしないと死ねばいいという方向に舵を取りそうだった。
 高校では友達が少ない、いわゆる陰キャだったので、そんな自分が知られない大学に行きたかったので家から通えない大学を選んだ。
 大学受験という大きなやることがあったので、それに向かって生きていられた。

 大学受験は志望校に合格した。
 とはいっても、偏差値的に合格できそうな所に合格しただけで、私は何も挑戦していなかった。飛べそうなハードルを飛んだだけだ。それでもそれなりに緊張はしたが。
 大学時代は、一番楽しかったように思う。
 勉強は大変だったが、サークル活動にも参加して気の合う友人もできた。研究室の教授にも恵まれたし、研究室の活動は楽しかった。
 バイトはやっていたが、人と関わりが少ないバイトを選んだ。しかしこれを後々後悔する羽目になる。
 アルバイトなら多少失敗しても職歴には傷がつかない(バイトテロなら話は別かもしれないが)のだから、色々やってみれば良かった。そうすれば、自分の向き不向きがもう少しわかったかもしれないのに。
 死のうと思ってそれを実行したことは無かったように思う。
 しかし、「いざとなったら死ねばいい」という思いは依然自分の中にあったし、死を意識している自分は異常な個体だという劣等感があった。
 そのことは友人にも誰にも言えなかった。
 せっかくそこそこ馴染めているのに、異常個体だと知られて迫害されるのが怖かった。幸せに生きている真っ当な友人に、友人が死にたいと思ってるという余計な重荷を背負わせたくなかった。友人たちが大事だからこそ、無駄に気を使わせたり悩ませたりしたくなかった。
 死にたいとは思わない、真っ当な人間のように擬態していた。

 この考えは、小学生のころいじめにあったからかもしれないし、違うかもしれない。
いじめと言ってもクラス全体が敵に回るようなものではなかった。
 一度目の転校先の小学校では、「縦割り班」という制度があり、数名ごとに分けられた1年から6年生までが一つの班として掃除か何かをするという、学年を超えた活動があった。
 あくまでその班の中で遠巻きにされたのであって、クラス内では普通に接されていたので、いじめとも言い難いと思っている。
 ちなみにきっかけは私に原因がある。鼻くそをほじって食べていた。
 それを縦割り班の6年生に見られ、「こいつ汚ねー!」となり、縦割り班の中で汚い子扱いされ、机などをさわるなと言われた。
 遊びだとはとても言えないが、客観的に見て鼻くそをほじる子は汚いだろう。暴力も振られてはいなかったし、割と良心的ないじめだと感じた。
 縦割り班での活動は学校生活のごく一部であり、クラスで排除されたわけではなかったため、不登校などにならず楽しく過ごしていた。
 慣れた学校からもう一度転校することになってから私は本格的に内向的な子供になった。
 自分のことをいじめられても仕方がない、異常個体だと感じるようになったのは、そのせいかもしれない。
 ちなみに、私は世間のいじめに関して「いじめられる方が悪い」とは思っていない。いじめは犯罪だし、例えいじめられる方に原因があったとしても、いじめが容認されていい理由にはならない。
 ただ、それが自分には当てはまらないと思っているだけだ。「私が」異常個体であり、異常個体である「私が」排除されるのは当然なのかもしれないと思っているだけだ。それを他人に適用しようとは思わない。
 しかし、いじめにあったのは転校後で、死にたいとなんとなく思っていたのはいじめに遭う前なので、自分の死にたさとは関係ないと思っている。

 大学では、生きたい人間に囲まれて、生きたい人間と混じり、生きたい人間のように頑張って勉強して、頑張って資格に合格した。
 擬態していたためか、ゼミの教授にはもっと自信を持ったほうがいいと言われた。確かにと思ったが、死にたいのに生きたいフリをしている人間未満だという劣等感は消えなかった。
 ちなみに資格を取ったのは、自分の劣等感が消えないかなと思ったからというのもある。
 しかし、資格を取ってみても劣等感は消えなかった。
 クズのくせにこんな資格持ってるなんて勿体ないなと思えただけだった。
 死にたさに起因する劣等感は、資格を取ったくらいじゃ消えないということがわかった。

小学生

 子供の頃から死にたかった。
 小学生の頃から、「死」を何となく意識していた子供だったように思う。
 ただ、積極的に死にたいというより、「いずれ年を取って苦しんで病気や事故で死ぬのは怖い。自発的に楽に死ねるならそっちを選びたい」と、その程度の意識だった。
 自分の意志の介在しない、苦痛のある死よりも自分の意志で苦痛なき死を選びたい。
 だから割と、反出生主義側に傾いた子供だった。
 その頃は、苦しんで死ぬのは嫌だが、生きていたらもう少し楽しみがあるかもしれないから生きようと思っていた。
 初めて積極的に自殺(の真似事)を試みたのは、小学六年生のとき。これははっきり覚えている。中学受験に受かったからだ。
 小学五年生ごろ、塾に行かされるようになった。その頃は中学に向けて塾に行かないといけないのだろうと思っていたが、親の考えは違っていた。塾に行くようになってしばらくして、中学受験をさせようとしていることに気づいた。
 私は一度引っ越したこともあり、引越し後ようやくできた友達と違う中学に行って別れるのが嫌だった。
 一度、夏休みに勉強を強制する親に「受験したいなんて言ってない」と泣いた事もあった。
 ちなみに、勉強自体は嫌いではなかった。得意不得意はあったが、その頃の自分にとっては勉強は「自分の可能性を広めるもの」であった。特に夢はなかったが、もしも未来で大学に行かないとなれない職業になりたいと思ったときには、頭がいいほうが大学に行ける確率が上がる。だから勉強していい成績をとること自体に抵抗はなかった。
 ただ、友達と別れることが嫌で、嫌なことのために努力したくなかった。
 そんな私に、親は「止めたければ止めなさい」とかそういう事を言ったと思う。
 その時、「止めたい」と言ったらどうなっていたかはわからない。
 しかし、私は塾を止めなかった。親を怒らせたくなかったからだろうか。
 死を意識していた私は思った。
 中学受験して、受かったら死のう。
 落ちたら友達と同じ中学に行けるのだから。
 どういう気持だったのかよくわからないが、そうして私はやりたくないことのために頑張って勉強した。
 親は、私の事を思って塾に行かせたのだと思う。
 塾代だって、受験費用だって安くはない。
 嫌なら受けたくないと拒絶する機会だってあったのだから、これは親のせいではなく自分のせいである。
 そして、志望校(私の志望ではなく親の志望)に受かった。
 この時初めて、積極的に死のうと思った。
 しかし、小学生だった私は飛び降り自殺は怖かった。首つりも怖かった。
 そこで、毒を飲むことにした。
 小学生で毒を手に入れることはできなかった。だから、シャンプーを飲んだ。
 まずくて少量しか飲めなくて、ちょっと下痢しただけに終わった気がする。
 初めての自殺未遂はこれで終わった。
 結局それ以上はなにもできず、私は受かった中学に通った。
 死ぬのはいつでもできる、楽しいことがあるかもしれないから、を言い訳に。
 それ以降、私は書きかけの遺書を大量に作る事となった。
 小学校の友達とは何回か手紙のやりとりをしたが、今は連絡を取っていない。

風邪の話

 小学生の頃、風邪が長引いたことがあった。
 最も辛い時期は2~3日で終わったと思う。

 後の何日かは、物凄く辛いわけではなかったし、熱も平熱だったが、何となく頭が熱っぽく、何となく頭痛がして、何となく体がだるかった。私は、少なくとも、「正常」ではないと感じていた。
 だから、毎朝、「まだ治っていない」と母に告げ、学校を休んでいた。
 どれくらい風邪を引いていたのかはわからない。
 一週間かもしれないし、二週間だったのかもしれない。
 ある日、母は「まだ治らないの? サボりじゃないの?」と言った。怒っていたのか、笑っていたのかは覚えていない。疑いの意は含んでいたように思うが、それは私の勘違いかもしれない。
 母の言葉は、衝撃的だった。
 自分は嘘をついているつもりはなかった。
 確かに学校に行けないほど辛いというわけではなかったが、正常ではないと思ったためまだ風邪を引いていると判断し、治っていないと言ったのだ。
 母が、どういうつもりで言ったのかは未だにわからない。
 確かに昔から私は学校が嫌いで、行きたくないと散々言っていた。
 しかし、仮病を使って休むということは無かった。
 そこまで頭が回っていなかったのかもしれないし、小心者だったからバレたら困ると思っていたのかもしれない。
 とにかく、今まで嘘をついて休むという事をしていなかったのに、風邪が長引いたというだけで仮病を疑われたのだ。
 しかし、少しだけ頭が痛くて、熱っぽいこの状況を風邪だと思っているのはあくまで私だけだ。
 私は医者ではないのだから、私が風邪だと思っているだけで、医者が診断したら私は「健康」なのかもしれないとも思った。
 私は自分は熱っぽく感じていて、辛いと感じているが、それはあくまで私の感覚であり、他人に言わせればそんなものは風邪ではない、単なる根性なしの弱音なのかもしれない。
 他人の「風邪」と、私の「風邪」の感覚は違うし、そしてそれは体感できない。私が感じている熱っぽさを母に体感してもらうことなどできないし、それを風邪か風邪でないかと判断するのは人それぞれだろう。
 もしも、私が感じるだるさ、熱っぽさを母が体感したとしても、母はこんなもの風邪ではないと言うかもしれないのだ。
 だから、私は風邪と感じたという私の感覚は、他人にとっては無意味なのだ。
 他人は、実際の体温や顔の赤さ、休んでいる日数など客観的指標で判断するしかできない。
 私は、私の感覚が信用できなくなった。
 翌日、私はまだ熱っぽいと感じてはいたが「治った」と言って学校に行った。
 熱っぽさはしばらく続いたが、学校に行き続けて、やがて治った。
 以降、私は風邪で休むのは3日以内にしようと思った。
 世の中、少なくとも母の中では、大事なのは私の辛さではなく、休む日数なのだろうと感じた。
 自分の感覚が信用できなくなり、母の言動も信用できなくなった。

 今だに、私は風邪を引いて有給を取る時は、自分の辛さではなく日数で判断している。

折り紙の話

 私は折り紙が苦手だし、嫌いだ。未だに鶴も折ることができない。練習しようとも思わない。
 嫌いになった理由は、幼稚園まで遡る。
 折り紙の時間、幼稚園の先生は言った。
「折り紙を折るときは、角と角を合わせましょう」
と。
 しかし、私は角を上手く合わせることができなかった。何度やり直しても、どんなに丁寧に折っても、微妙に角と角がずれてしまう。
 何度もやり直しているうちに、周囲の子供よりも遅れてしまい、先生の説明も聞けなくなる。次に何をやっていいのかわからない。結局半泣きで先生に教えてもらいながら、何度もやり直してシワのできた折り紙を完成させるという体たらくであった。
 こんな思いをしてばかりの時間が楽しいはずもなく、成長しても自分から折り紙に手を出すことはなく、苦手意識だけが醸成されて今に至るというわけだ。

 今考えれば、数mm程度の些細なズレなど気にせず折っていても、完成しないということはなかっただろう(多少不格好にはなっただろうが)。また、あの時の自分は他の幼児は全員角と角を完璧に合わせることができていると信じ込んでいて(何しろ、先生が「角と角を合わせろ」と言ったのだ)、自分だけが上手くできていないと思い、躍起になって合わせようとしていたのだが、幼稚園児のこと、角がずれているが気にせずさっさと進んでいた子供もいたに違いない。
 しかし、あの子との私は自分よりも早く、次の過程に進んでいる同級生を見て、他の子は自分と違って完全に角を合わせられているに違いない、皆は上手くできているのになぜ私は上手くできないのだろうと思っていて、私には折り紙は向いてないのだと思い込み、そのまま折り紙が嫌いになった。
 三つ子の魂百までという。
 私のこの、他人は自分よりできていると思い込み、他人が気にしないことを気にして出来もしない完璧を目指し、結果できない自分に劣等感を感じて苦手意識を抱く傾向は、人生に対しても同じなんだろうと思った。
 私はこれからも「他人はもっと人生をうまくやっている」と思い込み、人生に苦手意識を抱いて生きていくのだろう。

精神的成長あるいは退化

 先日、母親と親族の会話で次のようなことを言われた。

「弟が結婚したのだからあとはあんたもいい人と結婚できるといいね」

 細かいニュアンスは覚えていないが、とにかく結婚をしてほしいということだった。

 私は「アハハハ…」と、わらって誤魔化した。というか、とっさにそれ以外の空気を壊さない返事を思いつかなかった。何を言っていいのか(というか、言いたいことはあるがそれが本当にその場に適しているかが)わからない時、私は笑ってごまかすことを覚えていた。あまりに乾いた笑いに、母親はこいつ結婚する気ねーなと感じ取ったかもしれないが、まあ別にいい。

 てっきり傷ついて死にたくなるかと思ったが、不思議と何も感じなかった。むしろ、やはり母親も私に結婚を期待していて、私はその期待を裏切ることができると、愉快に感じた。そして、結婚する気のない娘の結婚を死ぬまで期待して生きるのかと軽蔑する笑いでもあった。

 数年前の私なら、プレッシャーに感じたかもしれないし、期待に答えられない自分を情けなく思い、自殺を考えていたかもしれない。

 しかし、今は違う。

 弟が結婚したおかげでむしろじゃあ私は結婚しなくてもいいやと重圧が消えた気がした。それ故に結婚式は心から祝えた。

 なぜなら、親の期待に答えられない自分以前に、世界に対応できない自分に絶望していたからだ。今更、結婚できるなどという自分に対する期待ごとき残っているはずがない。

 

 また、私が結婚を厭う理由は、親にもある。もちろん100%親のせいではない。

 私がデブでブサイクで陰気で人嫌いなのは、すべてが親のせいではない。

 しかし、それなら私を産まなければ、失敗作は生まれなかった。これが第一に結婚できない駄目女が生まれた理由だ。

 また、自分がブサイクだと実感していなかった(もしくは直視しようとしていなかった)ころから、私は結婚というものに憧れなど欠片も抱いていなかった。結婚などしたくないとまで思っていた。

 大嫌いな父親のご機嫌をとって大嫌いな祖母(母にとっての姑)に顎で使われる母を見てきたからだ。

 一応言っておくと、父親は暴力を振るったりギャンブル狂いだったり生活費を入れなかったりといった、一般的なクソ亭主ではなかった。祖母もそうだ。(表向きには)嫁姑戦争などはなかった。祖母に関しては、昔の人に特有の、若干男尊女卑的な考えに染まってはいたが。しかし、私にとっては合わない男だった。私なんかよりもひどい父を持つ人なんて星の数ほどいるだろうし、その人達から見ると私の苦痛なんて屁のようなものだろう。しかし、私にとっては唯一の父親であり、大嫌いな同居人であり、こいつの遺伝子が体にあると考えるだけでおぞましく自殺する理由になるものだった。

 そんなクソオヤジと結婚し、毎日クソオヤジの面倒を見ているのが間近にいる「結婚」のサンプルだった。「結婚というものは、家族というものに気を使い続けること」だと学んだ私が全く憧れなかったのも無理のない話ではないだろうか。

 また、考え方が前時代的な祖母は私に「結婚式を見せて」「孫の顔を見せて」「女の子なんだからお手伝いしなさい」と言ってくる。これも、幼い頃から大変なプレッシャーだった。まあ今は人間が嫌いだから無理ですねとすべてを諦めているが。

 私に結婚を否定させるような父親と、それの母親である祖母を選んだのは母親なのだ。

 その元凶が、「結婚できたらいいね」と言ってくる。笑えるのも仕方がない。

 ここまで考えたのも、自分のことを考え続けてきた結果だと考えれば、人間強度が上がったとも言える。

 もしくは、ただ単に開き直っただけかもしれない。

 

 

信号待ち

 信号待ちの間、子供の私はある遊びをしていた。

 名前はなかったが、あえて名付けるなら「横断歩道渡れるかゲーム」だろうか。

 もちろん、実際に赤信号中の横断歩道を渡るわけではない。脳内で横断歩道を渡る自分を想像していくのだ。ルールは走らない、止まらない。ひたすら徒歩で、わざと遅く歩くこともせず、一定のスピードで目の前の横断歩道に自分を歩かせる。最後のルールは、想像の自分と現実の横断歩道を走る車が接触すると想像の自分は轢かれ、スタート地点――実際に自分が立っている位置に戻され、再び歩き出す。一度も車に轢かれずに向こう側へと渡れればゲームクリアである。

 よほど車の通りが少なければ簡単だが、信号待ちをするような道はそこそこ交通量があり、何回か轢かれて死に続けるうちにいつの間にか信号が青に変わっていた。

 今思えば、簡単な遊びの一環として嫌いな自分を殺し続けることで、何らかの精神の安定を図っていたのかもしれない。

 最近は信号待ちの暇つぶしにはスマートフォンがあるため、この遊びはやっていないが、久しぶりに自分を殺すのもいいかもしれない。

 

劣等感

 現在の人格形成に最も関わっているのがこれだろう。
 劣等感があるため資格を取ってこの世で働いていけるようにした。劣等感があるから技術を身に着けようと焦り、雑用ばかり任せられる自分が嫌いになり、雑用を任せる会社に失望した。劣等感があるから上司の発達障害ではないかという言葉を信じ、足掻き、受け入れられず、辞めた。

 そもそも、劣等感を抱くようになった理由は何か。
 資格を取る、そのために大学に行く、と決めた時から劣等感はあった。
 発端は前に書いた転校先の小学校で受けたいじめと考えられる。自分が悪いからいじめにあったと考えた。
 再び転校したが、年齢のせいか環境のせいかいじめのせいか、転校先では余り人と積極的に関わろうとはしなくなっていた。誰にでも話しかける自分は消えた。自分なんかが話しかけては迷惑になるのではないかという意識が芽生えた。
 さらに、弟は自分と違って転校先でも友人ができていた。弟は自分と違って明るくて友人もできて父親との関係も良好で頭も良かった。自分の文化祭と弟の体育祭がかち合った際、三年間のうち全て弟を優先した。しかし親は悪くないと思う。年上と年下ならば年下を優先しただけだ。文化祭に一人よりも体育祭に一人の方が辛いかもしれない。誕生プレゼントは平等に貰っているし、あからさまに差別されたわけではない。弟と仲が悪いわけではないし、私も弟を嫌いではない。自分が勝手に親は弟のほうが大事だと劣等感を抱いているだけである。
 自分に自信があれば劣等感を抱かず親を恨むことはないのだろう。劣等感を抱いたから自分に自身がないのか、自分に自信がないから劣等感を抱くのか。そこいらへんは卵が先かひよこが先かという話になるが、できるだけ平等に扱っている親を恨む自分が嫌いになり、ますます劣等感を抱くという負のスパイラルに突入しやっぱり死んで消えたほうがいいね、という結論に達する。

 親が嫌いだから死にたいのではない。劣等感により自分を肯定できず、自分が嫌いだから、嫌いな自分から逃げたくて死にたいと思うのだ。
 会社が嫌い・世間が嫌いというのなら逃げようと思えば逃げられるだろう。世の中の、死ぬよりも逃げろという人は逃げるというのをそういう意味で使っている。
 しかし、自分が嫌いな場合、自分から逃げるのは自分を形成している人格を消すか、肉体ごと人格を消すしかないのだ。そして肉体を維持したまま人格を消すよりかは簡単に自分から逃げるために死という方法を選ぶのだ。