日々の遺書

雑多なことを徒然と。

なぜ死にたいのかを書いてみる

常々死にたいと思っている。

死に方も考えている。ビニールシートは注文したしビニール紐もある。

特に夜なんかはとても死にたくなる。

さっさと精神科に行った方がいいのだろうが金はないし最寄りのメンタルクリニックは8月まで予約がいっぱいだった。

別の病院を探すことにするが、

そこでなぜ死にたいのかその理由をまとめておくことにする。

1. 外見の問題

 外見が悪いから死にたいというよりも、外見が悪いために自分に自信が持てず、生きたいと思うモチベーションが低いというべきか。

 まず顔が悪い。別に傷やあざがあるわけではないが一般的には下の部類に入る顔だ。親兄弟は普通だと思うのだが、遺伝子の不思議である。XX染色体を持って生まれてきた者としてはこれは大変なディスアドバンテージである。人間は顔だけじゃないとはいえ、何かと外見で比較・評価される機会があるため自分に自信が持てない。

 また、太っている。

 これは顔より深刻だ。なぜなら自分の意志で選びようもない(整形したら別だが)顔の美醜と違って、体形はある程度自分の意思でコントロールすることが可能だからだ。もちろん病気などで仕方がない人もいるだろうが、自分の場合は病気でもなんでもない単なる肥満だ。つまり自己管理ができないダメ人間ということだ。そんなダメ人間は生きててもうまくいかないんじゃないんだろうかという気になる。つまり死にたくなるわけだ。

2.仕事の問題

 まず、これまでの仕事の遍歴をまとめてみることにする。

  1. 新卒で入った動物病院では対人の仕事が苦手すぎて上司に発達障害を疑われた。なお診察結果は社会不安症であったが結果が何であってもこの仕事に向いてないということであろうと思い辞めた。
  2. それならばと入った公務員でも毎日知らない市民と会話する仕事であった。前回の失敗から自分がコミュ障であることはわかっていたので、魔法使いに筋トレさせるような職場で、高齢化で人口が減っていく死にゆく町で働き続ける気概がなく、その上体調も崩しまくっていたため辞めた。
  3. 現在、小さな受託会社で働いている。専門性を活かせて、対人サービスも比較的少ないと考えたが、存外雑用が多く、給料も安く今後が不安である。

 この間、わずか三年。

 そう、仕事が長続きしていない。これだけでも社会不適合者であると感じている。この様子では人間社会に対応できないのではないだろうか。このザマでも生きているのが楽しいなら問題ないとは思うが、生きているのが楽しくないので苦痛に耐えて人間社会に適応するより死んだほうがマシなのではないかと思ってしまう。

 さらに今の職場でも順調とは言い難い。

 専門性が活かせる、伸ばせると思ったのに専門性もクソもない小学生だってできる書類チェック係を任された上、人手不足のためこの係からいつ卒業できるのかわからない。在職中はずっとやらされる羽目になるかもしれない。

 まあ、雑用オンリーというわけではなく、一応専門性のある仕事も任せられているため、仕事内容については前の仕事よりはマシだとは言えるが、なにせ給料が安い。

 給料については、公務員からの転職時にとにかく仕事を見つけないと辞められないと追い詰められており焦って低めに見積もりすぎた、完全なる自業自得なのだが。しかし今の仕事は自己研鑽が求められるのだがセミナー代やそれに伴う交通費などは出ない場合もあり、今の給料では厳しい。貯金もできないし生命保険にも入れない。

 仕事の内容まで思っていたものと違っていたため、やる気が無くなっているのが現状だ。一応昇給交渉は考えているものの、やったことがないためできるのか心配だ。失敗したらそれを理由に辞めようとは考えているが、仕事内容は改善する可能性がある(本業が忙しいと訴えれば雑用は辞められる可能性がある)ため、もう少し続けたいと考えている。

 昇給交渉するにおいて、自分の市場価値を知る意味でも、また交渉材料として、次の仕事を決めておいたほうがいいと思い転職活動の準備も始めている。

 それについても前述の流浪の転職履歴がネックになるのは必然である。しかも辞めた理由がセクハラ・パワハラとかブラック企業ならともかく、社会不適合者過ぎて辛くなりましたーでは会社も雇う気がしないだろう。私だって私を採用したくはない。

 もうこの世界に見切りをつけて資格が全く関係ない分野に行こうかとも思うこともある。より人と接さないような分野へ。しかし資格を取るために応援してくれ、学費その他を出してくれた親に申し訳がない。それに資格を捨てるといよいよ年だけ食った社会不適合者である。ますます採用される可能性が低くなるばかりだ。どうしても捨てるというのなら、そのためにはどんな仕事が向いているのか考える必要があるし、新たな分野の下調べも大事だ。

 つまりやることは沢山ある。沢山やることがあると、生来めんどくさがりの自分は死んだ方が面倒くさくないのではないか、つまり死んだ方が楽なのではないかと思う。

 

 死にたい理由は他にもあるが、長くなってきたので一旦ここで終わることにする。

 思い出したら続きを書くだろう。

 

 これらは、一つ一つは死ぬほどのことではない。

 アフリカの子どもたちや戦地の子供よりはよっぽど恵まれているし、日本の中でも、自分の行きたい大学へ行かせてくれて金も出してくれる親がいるだけでも人生イージーモードだと思う人もいるだろう。自分でもそのとおりだと思う。

 だが、私はそれが辛いのだ。恵まれた人生からこんな劣等感まみれの社会不適合の失敗作ができてしまったからこそ、私なんか死んだ方がいいと思ってしまう。

 死んでも何にもならない。それはわかる。でもプラスにはならなくともゼロにはなるのだ。死ぬ瞬間に苦痛や後悔を感じるかもしれないが、死んだ後は何も感じなくなる。別にプラスを求めて死ぬわけではない。悩みながらこれから数十年生きるよりも、今死んでゼロになった方が楽なのではないかと思う。だから死にたいのだ。死にたいというよりも、逃げたいのだろう。