日々の遺書

雑多なことを徒然と。

小学生

 子供の頃から死にたかった。
 小学生の頃から、「死」を何となく意識していた子供だったように思う。
 ただ、積極的に死にたいというより、「いずれ年を取って苦しんで病気や事故で死ぬのは怖い。自発的に楽に死ねるならそっちを選びたい」と、その程度の意識だった。
 自分の意志の介在しない、苦痛のある死よりも自分の意志で苦痛なき死を選びたい。
 だから割と、反出生主義側に傾いた子供だった。
 その頃は、苦しんで死ぬのは嫌だが、生きていたらもう少し楽しみがあるかもしれないから生きようと思っていた。
 初めて積極的に自殺(の真似事)を試みたのは、小学六年生のとき。これははっきり覚えている。中学受験に受かったからだ。
 小学五年生ごろ、塾に行かされるようになった。その頃は中学に向けて塾に行かないといけないのだろうと思っていたが、親の考えは違っていた。塾に行くようになってしばらくして、中学受験をさせようとしていることに気づいた。
 私は一度引っ越したこともあり、引越し後ようやくできた友達と違う中学に行って別れるのが嫌だった。
 一度、夏休みに勉強を強制する親に「受験したいなんて言ってない」と泣いた事もあった。
 ちなみに、勉強自体は嫌いではなかった。得意不得意はあったが、その頃の自分にとっては勉強は「自分の可能性を広めるもの」であった。特に夢はなかったが、もしも未来で大学に行かないとなれない職業になりたいと思ったときには、頭がいいほうが大学に行ける確率が上がる。だから勉強していい成績をとること自体に抵抗はなかった。
 ただ、友達と別れることが嫌で、嫌なことのために努力したくなかった。
 そんな私に、親は「止めたければ止めなさい」とかそういう事を言ったと思う。
 その時、「止めたい」と言ったらどうなっていたかはわからない。
 しかし、私は塾を止めなかった。親を怒らせたくなかったからだろうか。
 死を意識していた私は思った。
 中学受験して、受かったら死のう。
 落ちたら友達と同じ中学に行けるのだから。
 どういう気持だったのかよくわからないが、そうして私はやりたくないことのために頑張って勉強した。
 親は、私の事を思って塾に行かせたのだと思う。
 塾代だって、受験費用だって安くはない。
 嫌なら受けたくないと拒絶する機会だってあったのだから、これは親のせいではなく自分のせいである。
 そして、志望校(私の志望ではなく親の志望)に受かった。
 この時初めて、積極的に死のうと思った。
 しかし、小学生だった私は飛び降り自殺は怖かった。首つりも怖かった。
 そこで、毒を飲むことにした。
 小学生で毒を手に入れることはできなかった。だから、シャンプーを飲んだ。
 まずくて少量しか飲めなくて、ちょっと下痢しただけに終わった気がする。
 初めての自殺未遂はこれで終わった。
 結局それ以上はなにもできず、私は受かった中学に通った。
 死ぬのはいつでもできる、楽しいことがあるかもしれないから、を言い訳に。
 それ以降、私は書きかけの遺書を大量に作る事となった。
 小学校の友達とは何回か手紙のやりとりをしたが、今は連絡を取っていない。