日々の遺書

雑多なことを徒然と。

死にたいと思ったきっかけ


 私は小学校の時から死にたいと思うようになった。
 小学三年生のとき、転校先でいじめられたことはあったが、学校が嫌いだと思っても死にたいと思うことはなかった。まあいじめといっても一年生~六年生で集められた縦割り班の中の上級生にいじめられただけで、クラス内では居場所があったから耐えられたのだと思う。
 ただ、いじめの理由は私が「鼻くそをほじって食べていた」ためであり、自分でもそりゃそんなやつ汚いよな…とは思うため、いじめられた理由は自分にある=自分が悪い=生きるに値しないと自己肯定感が損なわれたのは事実であろう。
 その後再び転校し、三年生まで通っていた小学校に戻ってきたのだが、その際にクラスとあまり馴染めなかった(一応友人はいたが、全員とではなかった)あたりで人生が決まってきたように思う。
 真に死にたいと思い、実行したのは中学受験を行ったからだろう。
 まず、中学受験のため塾に通っていたが、そこで全く友人ができなかった。というより作ろうとしなかった。あまりタイプの似た子供がいなかったし、塾は一時的なものと思っていたし、小学校と違って話しかけていいものかもわからなかった。常に一人でご飯を食べていた。正直中学受験も私の意思ではなかった。よくわからずにテストを受けて、よくわからずに受験をすることになった。転校してきた私に優しくしてくれた友人たちと同じ中学に行きたかった。
 親も私のことを考えて金を出し、私立中学に通わせてくれたのだと思うし、公立中学に行ってもいじめを受けて不登校になって自殺していたかもしれないので、別にそこで親を責める気はまったくないが。というか本当に嫌なら泣いて喚いて塾を拒否して絶対に友達と同じ中学に行くと言えば良かったのだ。実際一度だけ親の前で「好きで塾に行きたいわけじゃない」と泣いた記憶がある。その際に嫌ならやめてもいいと言われた。やめる機会はあった。あのときじゃあやめると言えば良かったのだ。それをせずに嫌々塾に通うのを選んだのは自分自身で、結局は自分の責任だ。
 結果第一志望の中学に受かったが、その時はじめて死にたいと思った。元々厭世的で、この世に私は偶然生まれてきて、生きる意味や運命などはないと思っていた。楽しいことがあれば生きるが、それがなくなれば死んでもいい。だから塾でも友人ができなかった私が、中学でも友人ができるわけがない。それなら死んだ方がいいと思った。
 実際に行動にも移した。とは言っても首吊りやリストカットをする度胸はなく、毒を飲もうと思った。しかし小学生が手に入れられる毒などたかが知れている。シャンプーかリンスを飲んだ覚えがある。小学生にしては決死の覚悟で少量飲んだが、結局死ねなかった。私の初めての自殺はちょっとの下痢で終わった。
 でもこの時から「死にたい」という思いは常に心の端にあり、定期的に遺書を書いていた。
 中学、高校は案の定友人はあまりできなかったが、何人かとは会話していたしおそらく嫌われていたというほどでもなかったから、いじめは受けていなかった。いじめを受けるほど目立っていなかった。
 生まれたのは偶然だから、できるだけこの世を楽しんで、楽しめなくなったら死のうという信条はまだ抱いていた。その時好きな小説の作者ができ、この人が死ぬまでは生きようと思った。生きようと思っていた。

 学生の頃まだ「将来」という希望があった。今は辛くても、つまらなくても、将来は楽しいかもしれない。将来は学校から離れられる。将来はこんな自分から変われるかもしれない。そんな希望があったため、色々我慢できた。
 まあ結局変われずに、今は将来という希望すらなくなって、死が希望になったわけだが。

無題

辛い以外の感想がない。やる気がでない。だるい。しにたい。でもそんなのいつものじゃない?と言われれればそういう気もする。死にたさと長い付き合いすぎてそれが異常なのか正常なのかもわからない。

 

正常とはなんだ? 異常とはなんだ? 相対的なものに過ぎない。人類の足が一本であれば2本の足は異常だし、人類の八割が死にたいと思ってるとしたら死にたくないと思っている方が異常なのだ。生命力亢進症とでも名前がついていたに違いない。

 

今の仕事をやめたら何もせずに過ごした後自殺しそう。でもきっとそれでいい。そのために辞めるのだ。そのために生きてきたのだ。きっと。

死にたいと思ってる地点で死にたいと思ってない人間より劣っている

 結局、普通の人間は「死」は選択肢に入らないんだよな。
 やりたいことがあるとか大事な家族なり恋人なり友人がいるとかで、生が楽しいから生きることが前提としてあり、死ぬことなんて考えない。選択肢にない。
 だから仕事で詰まっても我慢するか辞めるかくらいで死は選択肢に入らない。余計な邪念が入らないから今の仕事や転職活動に専念できる。
 死という選択肢がある人間は死ぬかどうかも考えるし転職より在職より死は一番気軽にできる(縄を買ってきてぶら下がるだけである)から死のうか迷って転職活動や自分磨きの時間を潰す。
 ああ無為。
 そんなダメ人間は死んだほうがいい。
 死にたいと思ってる人間は生きると思ってる人間と比べると能力が落ちるしやっぱり死んだほうがいいというわけだ。

現状

 専門的な知識を身に着けられる仕事を人とあまり関わらずに黙々とやりたいというのは難しいことなんだろうか。なんで雑用係になっているんだろうか。ってぐるぐる考えている。

死にたかったりそうでもなかったり。前は死にたい一辺倒だったけど今の会社のクソさに対する怒りが増して死ぬにしても辞めてから死んでやる、とりあえず会社に傷を残してから死んでやるという気持ちが強い。

以前は社会でやっていけない自分が悪いんだ死ぬしかないという感じだったが、この会社はクソだからやっていけないのはしょうがないという気持ちが強い。

 

なぜ死にたいのかを書いてみる

常々死にたいと思っている。

死に方も考えている。ビニールシートは注文したしビニール紐もある。

特に夜なんかはとても死にたくなる。

さっさと精神科に行った方がいいのだろうが金はないし最寄りのメンタルクリニックは8月まで予約がいっぱいだった。

別の病院を探すことにするが、

そこでなぜ死にたいのかその理由をまとめておくことにする。

1. 外見の問題

 外見が悪いから死にたいというよりも、外見が悪いために自分に自信が持てず、生きたいと思うモチベーションが低いというべきか。

 まず顔が悪い。別に傷やあざがあるわけではないが一般的には下の部類に入る顔だ。親兄弟は普通だと思うのだが、遺伝子の不思議である。XX染色体を持って生まれてきた者としてはこれは大変なディスアドバンテージである。人間は顔だけじゃないとはいえ、何かと外見で比較・評価される機会があるため自分に自信が持てない。

 また、太っている。

 これは顔より深刻だ。なぜなら自分の意志で選びようもない(整形したら別だが)顔の美醜と違って、体形はある程度自分の意思でコントロールすることが可能だからだ。もちろん病気などで仕方がない人もいるだろうが、自分の場合は病気でもなんでもない単なる肥満だ。つまり自己管理ができないダメ人間ということだ。そんなダメ人間は生きててもうまくいかないんじゃないんだろうかという気になる。つまり死にたくなるわけだ。

2.仕事の問題

 まず、これまでの仕事の遍歴をまとめてみることにする。

  1. 新卒で入った動物病院では対人の仕事が苦手すぎて上司に発達障害を疑われた。なお診察結果は社会不安症であったが結果が何であってもこの仕事に向いてないということであろうと思い辞めた。
  2. それならばと入った公務員でも毎日知らない市民と会話する仕事であった。前回の失敗から自分がコミュ障であることはわかっていたので、魔法使いに筋トレさせるような職場で、高齢化で人口が減っていく死にゆく町で働き続ける気概がなく、その上体調も崩しまくっていたため辞めた。
  3. 現在、小さな受託会社で働いている。専門性を活かせて、対人サービスも比較的少ないと考えたが、存外雑用が多く、給料も安く今後が不安である。

 この間、わずか三年。

 そう、仕事が長続きしていない。これだけでも社会不適合者であると感じている。この様子では人間社会に対応できないのではないだろうか。このザマでも生きているのが楽しいなら問題ないとは思うが、生きているのが楽しくないので苦痛に耐えて人間社会に適応するより死んだほうがマシなのではないかと思ってしまう。

 さらに今の職場でも順調とは言い難い。

 専門性が活かせる、伸ばせると思ったのに専門性もクソもない小学生だってできる書類チェック係を任された上、人手不足のためこの係からいつ卒業できるのかわからない。在職中はずっとやらされる羽目になるかもしれない。

 まあ、雑用オンリーというわけではなく、一応専門性のある仕事も任せられているため、仕事内容については前の仕事よりはマシだとは言えるが、なにせ給料が安い。

 給料については、公務員からの転職時にとにかく仕事を見つけないと辞められないと追い詰められており焦って低めに見積もりすぎた、完全なる自業自得なのだが。しかし今の仕事は自己研鑽が求められるのだがセミナー代やそれに伴う交通費などは出ない場合もあり、今の給料では厳しい。貯金もできないし生命保険にも入れない。

 仕事の内容まで思っていたものと違っていたため、やる気が無くなっているのが現状だ。一応昇給交渉は考えているものの、やったことがないためできるのか心配だ。失敗したらそれを理由に辞めようとは考えているが、仕事内容は改善する可能性がある(本業が忙しいと訴えれば雑用は辞められる可能性がある)ため、もう少し続けたいと考えている。

 昇給交渉するにおいて、自分の市場価値を知る意味でも、また交渉材料として、次の仕事を決めておいたほうがいいと思い転職活動の準備も始めている。

 それについても前述の流浪の転職履歴がネックになるのは必然である。しかも辞めた理由がセクハラ・パワハラとかブラック企業ならともかく、社会不適合者過ぎて辛くなりましたーでは会社も雇う気がしないだろう。私だって私を採用したくはない。

 もうこの世界に見切りをつけて資格が全く関係ない分野に行こうかとも思うこともある。より人と接さないような分野へ。しかし資格を取るために応援してくれ、学費その他を出してくれた親に申し訳がない。それに資格を捨てるといよいよ年だけ食った社会不適合者である。ますます採用される可能性が低くなるばかりだ。どうしても捨てるというのなら、そのためにはどんな仕事が向いているのか考える必要があるし、新たな分野の下調べも大事だ。

 つまりやることは沢山ある。沢山やることがあると、生来めんどくさがりの自分は死んだ方が面倒くさくないのではないか、つまり死んだ方が楽なのではないかと思う。

 

 死にたい理由は他にもあるが、長くなってきたので一旦ここで終わることにする。

 思い出したら続きを書くだろう。

 

 これらは、一つ一つは死ぬほどのことではない。

 アフリカの子どもたちや戦地の子供よりはよっぽど恵まれているし、日本の中でも、自分の行きたい大学へ行かせてくれて金も出してくれる親がいるだけでも人生イージーモードだと思う人もいるだろう。自分でもそのとおりだと思う。

 だが、私はそれが辛いのだ。恵まれた人生からこんな劣等感まみれの社会不適合の失敗作ができてしまったからこそ、私なんか死んだ方がいいと思ってしまう。

 死んでも何にもならない。それはわかる。でもプラスにはならなくともゼロにはなるのだ。死ぬ瞬間に苦痛や後悔を感じるかもしれないが、死んだ後は何も感じなくなる。別にプラスを求めて死ぬわけではない。悩みながらこれから数十年生きるよりも、今死んでゼロになった方が楽なのではないかと思う。だから死にたいのだ。死にたいというよりも、逃げたいのだろう。